「美しさ」と「可愛らしさ」と「現代美容外科医療」

2011.04.20

女性の顔立ちの魅力を語り尽くすことは難しい。「現代美容外科医療(整形・エステ)の父」と呼ばれるフランス人の美容外科医フルニエ氏は、女性の顔の魅力について、「美しさ」と「可愛らしさ」はまったく別のものだと言っている。フルニエ氏のいう「美しい」顔立ちは、いわゆる均整のとれた顔だ。顔には「黄金律」というべき美の配分がある。そうしたバランスにしたがって、規律と調和をもたらすところに厳然とした「美」があらわれる。「ミロのビーナス」のような整った彫りの深い顔立ちは、この「黄金律」にもとづいた西洋美人の完成した姿形であるというわけだ。けれど、完成された姿形にも欠点がないわけではない。均整のとれた「美」には円熟した味わいがあるが、「自己完結した美」にはある種の退屈さが垣間見える。欠点のないことが欠点という物足りなさ、といえば通じるだろうか。そんなことをいったら。きりのない話だが、フルニエ氏いわく、不思議なことに「完成された美人」たちのほとんどが願うことは、いまよりももっと「美しくなりたい」という望みなのだという。では、こうした女性たちの「完成された美」のさらに先にあるもの、それ以上に求められるものとは何であろうか?フルニエ氏は、それは「美しさ」ではなく、「可愛らしさ」だというのである。これには、私もうなずかされた。そうした傾向の女性たちは大変に多いからだ。では、「可愛らしさ」にはどんな意味があるのだろうか?「あの子、可愛いよね」というとき、それは「美しい顔立ち」のことではないのはだれでも知っている。「美しい顔立ち」は、よく発達した開花期の表現である。それに対して、「可愛いらしい顔立ち」は未発達の状態にある1のことだ。「童顔」の特徴といっていい、鼻や口、あごなどの未発達な状態は動物学的に解釈すると、その個体が自分自身で食べ物を果敢にとらえ食べることができないことを示す。。キューピーや。ミッキーマウスなどの「可愛らしさ」は、幼いものや弱いものを守ろうとする「保護本能」をくすぐるのである。二つの魅力は同時に手に入らないものなのだフルニエ氏の講演の指摘にはないことだが、目の大きい人や口の大きい人のもつ独特の可愛らしさやエロチシズムは、完成形に統一されることを否定した、「無邪気さ」や「悪戯っぽさ」の魅惑といえないだろうか。「美しさ」はその果てに「可愛らしさ」を求める。それは「大人」が「子どもっぽさ」を懐かしみ、変化や寄り道や遊びに憧れるからでもあるだろう。私たち、東洋人の美しさの基準には、この「可愛らしさ」が織り込まれていることが多い。東洋人が西洋人と比べて、実際の年齢より若く見られるのも、「可愛らしさ」のおかげだ。「可愛らしさ」が際立っている日本人女性は、世界中どこへ行っても愛されるのである。(現在人気の女優さんたちも、「美しさ」よりこの「可愛らしさ」の比重の方が高いとは思いませんか)。しかし、困ったことに、この二つの魅力は同時に手に入らないのだ。クリニックに来られる女性たちの中には、次のような要求をする女性がいる。「鼻筋を通して、顔立ちをきれいにしてください。それから、若々しく、可愛らしくしてください」といわれても、フルニエ氏の説のごとく、「美しさ」と「可愛らしさ(若さ)」とは別々の相反するものなのだ。どちらか一方を追えば、どちらか一方を失うという美のベクトルがある。しかしながら、そうはいっても、その「二兎」を追ってバランスを理解し、整えることが、美容外科医のセンスであり、職人技ということになるだろうか。なぜかといえば、生きている人間の顔立ちは、フルニエ説のように二極分解されているわけでもなく、両者が入り交じって存在しているからだ。いつもいうことだがぶ九成された美人なんてそうザラにはいないものなのだ。であるからこそ、「一人ひとりの女性の顔立ちの個性とバランスを見極める」ということが私たちの仕事の重点課題となる。最先端の医療技術・情報を追究するあまり、この。女性の魅力とは何かという命題をおろそかにしては、ことの本筋を見失ってしまうことになりかねない。美容外科医を志して十仁病院に勤務していたころ、病院の一室で一心にテキストを読みふけっていたら、院長先生に「そんなに。教科書ばかり読んでないで、銀座の街中を歩きまわって、どんな女性に魅力があるか、よく確かめて来なさい!」と叱られたことがある。当時は「?」と耳を疑ったものだが、これは「ガリ勉をしたって本当の美は発見できないぞ!」ということだろう。