日本の生活レベルの高さは、労働者の犠牲の上に成り立っているのではないのか。もし、そうだとすると、トータルに考えると、日本がそれほど良いとはいえないのではなかろうか。この意見には一理ある。たしかに、日本人が生活者としての利便性を求め、それに応えるために、企業は提供する製品やサービスの質を競い合い、その要求水準が高くなればなるほど、労働者の労働は強化される。公共輸送機関のパンクチュアリティが、生活の質を高めることは誰も否定しないであろう。
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しかし、これは同時に、鉄道会社の社員の労働強化につながっている。労働者は、同時に生活者でもある。私たち日本人は、生活者の論理と労働者の論理がぶつかりあうなかで、前者を優先することを暗黙のうちに選択しているのではなかろうか。これも、ある意味では、日本的なワーク(労働)・ライフ(生活)のバランスの取り方かもしれないのである。おそらくイタリア人は、逆の選択、つまり、労働者の論理を生活者の論理に優先するという選択をしているのである。イタリア人のように働いて、日本人のような生活を享受するという双方の「いいとこ取り」はできまい。